柳窪天神社|東久留米市柳窪の神社
柳窪天神社|東久留米市柳窪の神社

柳窪天神社|東久留米市柳窪の神社

柳窪天神社|東久留米市柳窪にある柳窪天神社の由緒と所蔵の文化財等を、新編武蔵風土記稿等からの引用を交えて案内。柳窪村鎮守

柳窪村の鎮守で、江戸時代の後期には、稲荷天神相社と呼ばれ、稲荷社と天神社とが合祀されていた。『新編武蔵風土記稿』にも、 稲荷天神相社 境内にあり、小社にして上屋六尺四方、拝殿三間に二間東向なり、前に鳥居を立つ、傍に古松あり、圍り二丈許、例祭三月、村内の鎮守也 とある。この境内というのは、長福寺の境内をさしているようで、したがって別当寺は長福寺であったことになる。しかし、長福寺は、寺院建築で述べたように、もとは他所にあったが、寛政五年(一七九三)、天満宮(天神社)の境内に移されているので、当境内はもとは、天満宮境内であったことになる。 この天神社の社地をめぐって、村の百姓源七と村民とが争ったことが、延享四年(一七四七)の文書(『市史近世史料』二二七)に見られる。この文書の内容は、延享四年の三五年前に、村では、稲荷、天神両社の拝殿を建立したが、源七は天神社の土地は先祖代々の土地で、社も自ら立てたと主張しているが、それは全くの心得違いであり、天神社の土地は村の所有地だと訴えたものである。その後、源七の間違いもわかり、和議も成立したが、この事件は、一八世紀初期には村の敷地も不分明であったことを示すものである。 柳窪村は、寛文一〇年(一六七〇)の開村でもあり、それから間もないころであったため、このような事件が起こったのであろう。したがって、稲荷、天神両社の創建も、寛文一〇年をさかのぼることはなく、かつまた、延享ごろには別々に祭られていたが、江戸後期ごろには、相社となって、二神が合祀されたわけである。 しかし、幕末から明治になって、二神とは別の祭神、菅原道真が祭られるようになったようである。『皇国地誌』には、「祭神菅原道真を勧請す。年月詳ならず」と記されているが、境内には、安政四年(一八五七)、武蔵府中六所大明神(現府中市大国魂神社)の宮司近江守従五位下藤原朝臣盛章が記した「梅林之記」の碑があり、その中で、久留米の名の由来を「来目」「来梅」とし、梅林を「天神社の飛梅」と国学風に説き、菅原道真と結びつけているので、道真が祭神となったのも、このころではないかと推察される。(東久留米市史より)

柳窪天神社所蔵の文化財

  • 柳窪梅林の碑(東久留米市指定文化財)
柳窪梅林の碑

「柳窪里梅林之記」が刻まれていることから柳窪梅林の碑とよばれています。 この碑文は、江戸時代の安政四年(一八五七)に六所宮神主(府中の大国魂神社宮司)であった猿渡盛章が書いたもので、古い祠の傍らにあった「天神松」という老木が枯れるのを惜しんで、村人と梅林の植樹をしたことが記されています。そのなかには、「来梅ノ荘の里」や「来梅川」という名が記されており、現在の地名を考えるうえで貴重な資料となっています。 裏面には「ちとせとて まつはかぎりのあるものを はるだにあらば はなはみてまし」という菅原道真と伝えられる歌が梅沢敬典という書家の手によって書かれています。(東久留米市教育委員会掲示より)

柳窪天神社の周辺図 参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 東京都神社名鑑
  • 東久留米市史
  • 東久留米市・西東京市の寺社
  • 東久留米市・西東京市の寺院
  • 東久留米市・西東京市の神社
  • 東久留米市・西東京市の名所旧跡