平井聖天燈明寺|江戸川区平井にある新義真言宗寺院
平井聖天燈明寺|江戸川区平井にある新義真言宗寺院

平井聖天燈明寺|江戸川区平井にある新義真言宗寺院

平井聖天燈明寺|江戸川区平井にある新義真言宗の明雅山明王院燈明寺の縁起と所蔵の文化財等を、新編武蔵風土記稿等からの引用を交えて案内。関東三聖天、南葛八十八ヶ所霊場

燈明寺は、新義真言宗に属し明雅山明王院と称し、本尊の不動明王は身長1丈3勺(3.9m)で胎内に弘法大師1刀3札の不動明王を安置しているという。開山は元暁法印といわれるが年代は不詳である。 本堂は大正12年関東大震災のため倒壊したので千代澄道大僧正の発願により昭和4年に起工し同19年に完成した。建物は総高14.4m、幅17.1m、奥行27mの金堂造りである。内部の奥の院は飛鳥朝風、中陣は平安朝風に、外陣は鎌倉風に造られ、シャンデリヤは鹿鳴館で使用されたものである。外部は宇治平等院と京都東寺金堂の様式を取入れ、三つ屋根造りで軒ぞりの優雅な姿をした壮麗な建築である。 先代澄道大僧正は、正岡子規や伊藤左千夫などと親交が深かったので、それらの文人たちの短冊をはじめ、雪舟の「水墨山水図」、「南岳草花図譜」、応挙の「宇治橋」、牧渓の「虎の図」などを所蔵している。 燈明寺の別堂である聖天堂は「平井聖天」といわれ、昔から関東三聖天の一つである。江戸時代には歴代将軍の鷹狩の時、聖天に参詣され、また御膳所にもなっていた。 この聖天堂は、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、昔から多くの人の信仰を集めている。(江戸川区の文化財より)

新編武蔵風土記稿による燈明寺の縁起

(下平井村)燈明寺 新義真言宗、金町村金蓮院末、明雅山明王院と称す。開山元暁寂年を傳へず。中興を恵祐と云。寛延2年8月16日示寂す。当寺享保12年9月23日有徳院殿此邊御遊猟のとき、御渡ありて御腰掛を設け、境内に於て図的上覧ありしより、翌13年始て御膳所となれり。 本堂。 本尊不動、二童子とも良弁の作なり。 楼門 聖天社。社前に鳥居3基を立。頗荘厳の社宇なり。都下及近郷の人平井聖天とよび崇尊の輩多しされど、本社以下の造営中興、恵祐が時なりといへば、その繁栄するも古きことにはあらざるべし。 諏訪社(平井諏訪神社)。村内の鎮守にて古社なりといへど、来由詳ならず。今は全く聖天の末社の如くなれり。 大黒天社。土人或は一黒守とも呼り。社前に石の二王を立。 疱瘡神社 稲荷社 三峯社 地蔵堂 塔頭、東覚院(新編武蔵風土記稿より)

新編武蔵風土記稿による燈明寺の縁起

灯明寺(平井六丁目一七番三〇号) 新義真言宗で明雅山明王院と号し、もとは金町の金蓮院の末。本尊は不動明王で三木宗策の作である。開山は元暁法印といわれるがその年代は明らかでない。一説によると文明年中元暁法印が一夜霊夢を感じ、庭の松に大聖歓喜天の霊像を見たので、ここに一宇を建立して松応堂と称したのが始まりという。中興は恵祐法印で寛延二年に入寂した。聖天堂は「平井聖天」といわれ、昔から関東三聖天の一つとして知られるが、別項史跡と名所に詳述した。今の本堂は先代が関東震災後建立したもので、壮麗な金堂造りで区内では特異な建築である。イタリヤ製の豪華なシャンデリアが掛っているが、これは鹿鳴館が解体されて競売になったとき購入したものである。 また先代澄道大僧正は正岡子規や伊藤左千夫などと親交が深かったので、佐々木信綱、伊藤左千夫の短冊をはじめ、南岳草花図譜、雪舟の水墨山水画帳、応挙の宇治橋、文晁の大幅、牧渓の虎の図などを所蔵する。(新編武蔵風土記稿より)