じつは「大本営発表」以上に戦意旺盛だった「社説」…戦争当時、新聞は「沖縄戦」をどう報じていたか
太平洋戦争末期の昭和20年3月23日、南西諸島が敵機動部隊の空襲を受け、26日には米軍の一部が慶良間諸島に上陸。そして4月1日、猛烈な艦砲射撃ののち、米軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始、し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。あれから78年――。テレビもインターネットもない時代、人々が戦況を知る手段は新聞とラジオだけである。ラジオのほうの音源はほとんど残っていないが、幸い、新聞は各社のものが縮刷版などとして、現代でも国立国会図書館などで読むことができる。絶望的な戦況のなか、新聞は沖縄戦をどう伝えたのだろうか。情報量が総じて他紙と比較し多かった朝日新聞の紙面を中心に振り返る。(当時の新聞記事は新仮名、新字体に直して表記する)
29日の一面には、〈満十七、八歳召集 召集規則改正公布 区域制限を撤廃〉として、日本全国の徴兵検査未済の満17歳、18歳の少年が、防衛召集、臨戦召集の対象になったとの記事が掲載された。同日の二面には、中央省庁との打ち合わせのため上京した、沖縄県内政部庶務課長への取材記事が掲載されたが、そのタイトルは 〈合言葉は一人十殺 竹槍なくば唐手(からて)で 老幼も起つ沖縄県民〉 とあり、内容も〈住居を焼かれたって、家財を失ったって、最後に勝てばいいではないか〉〈鉄砲がなければ竹槍で行こう、竹槍が折れたら唐手(空手)でいこう――この決意だ〉と、その意気はよしとしても、米軍の近代兵器を相手に竹槍や空手で戦えるとほんとうに思っていたのか、いま見れば正気の沙汰ではないような言葉が並ぶ。また、〈街に村に義勇隊〉と題する記事には、千葉県下の飛行機会社では男は竹槍、女は薙刀の訓練に励み、伊豆下田では町長を隊長とする義勇突撃隊が、静岡県では日露戦争で戦った在郷軍人の老兵を中心に「上澤護国隊」がそれぞれ結成され、八王子では「多摩神武隊」と称する隊が結成、武道の有段者を集めて町道場で練武を始めたなど、幕末にタイムスリップしたかのような内容が記されている。