零戦の英雄が日本航空の入社試験を「自分から放棄してしまった」あまりにも痛恨な勘違い
零戦の英雄が日本航空の入社試験を「自分から放棄してしまった」あまりにも痛恨な勘違い

零戦の英雄が日本航空の入社試験を「自分から放棄してしまった」あまりにも痛恨な勘違い

太平洋戦争を戦った元海軍戦闘機搭乗員、田中國義氏が戦後の人生を振り返る。彼は戦後81年で数少ない生存者の一人であり、戦闘機搭乗員としての経験を経て、自動車修理店を開業したが、成功には至らなかった。田中氏は94歳で亡くなるまで、戦争体験を語り続け、自身の夢を叶えたことに満足感を示していた。

太平洋戦争で軍人として最前線で戦ったのは、明治後期から大正、昭和初期までに生まれた人たちだった。戦後81年。当事者のほとんどが鬼籍に入り、「忘れてはならない」の掛け声とはうらはらに、確実に戦争の記憶は遠ざかってゆく。そして終戦後、当事者たちがどのように生きたかということは戦争中の出来事以上に知られていない。だが、戦後、焼け跡からの復興を担ったのもこの世代だ。ここでは、私が30年以上にわたり、直接インタビューした元海軍戦闘機搭乗員の「戦後」をシリーズで振り返る。海軍の戦闘機搭乗員は、戦後50年の平成7(1995)年に1100名が存命だったのが、それから30年が経った令和7(2025)年10月現在、数名の存命が確認できるに過ぎない。

最前線に投入された戦闘機搭乗員の8割が戦没した苛烈な戦争を生き延びた彼らは、どのような戦後を過ごしたのか。今回は名パイロットとして知られながら戦後ちょっとした行き違いでパイロットになれなかった田中國義少尉を紹介する。

試験を放棄、パイロットになり損ねる

「仕方がない、英語をマスターしてまた飛行機に乗ろう」

「ところが、私のいたところは日本人ばかりでアメリカ人は少ししかおらず、こっちが英語をマスターする前に向こうが日本語を覚えちゃった」

「ところが、行ってみたら英語の試験をやるって言うんですよ。私は英語なんて全然できません。いつも飛ぶときの言葉はなんとかなるだろうけど、緊急事態になったときに英語ではどうにもならない、そう思ってあきらめて帰っちゃったんです。そしたらあとで人に笑われました。あのな、地上で管制するのも日本人だぞ、ぎごちない英語でやってるんだから、いざというときは日本語になるんだよ、と。

それに、当時の松尾静磨専務が佐賀の人で、私とは遠縁にあたるんですが、あとで怒られました。おまえ、零点でも試験さえ受けていればなんとでもなるが、受けなきゃどうしようもないじゃないかと。あそこで正直に考えすぎたのが人生の分かれ目でした」

「戦後は自動車にずっと関わってきましたが、儲かりませんでしたねえ。どうも私は金儲けには向いていなかったみたいです」