水色文庫 - 朗読のためのフリーテキスト -
水色文庫 - 朗読のためのフリーテキスト - どうして彼はわたしを選んだのだろう、とよく考える。 あるいは、どうしてわたしは彼に選ばれたのだろう、と。 わたしは、ドジでわがままな女だ。とりたてて美人でもなければ、スタイルもよくない。背も高くないし、顔はソバカスだらけだ。 わたしの毎日は、失敗の連続だ。 ヤカンを火にかけていたことを忘れて、黒コゲにしてしまう。
どうして彼はわたしを選んだのだろう、とよく考える。 あるいは、どうしてわたしは彼に選ばれたのだろう、と。 わたしは、ドジでわがままな女だ。とりたてて美人でもなければ、スタイルもよくない。背も高くないし、顔はソバカスだらけだ。 わたしの毎日は、失敗の連続だ。 ヤカンを火にかけていたことを忘れて、黒コゲにしてしまう。 ホットケーキを引っくりかえそうとして、床に落としてしまう。 トーストはかならず、バターのついたほうを下にして落としてしまう。 洗い物ではかならず、コップを割ってしまう。 ご飯は、硬すぎるか、柔らかすぎるようにしか炊けない。 掃除機を振りまわしては、花瓶を割ってしまう。 読んでいる本にはソースをこぼし、新聞にはコーヒーをぶちまけてしまう。 買ってきた卵はかならず割ってしまうし、豆腐はきっとくずしてしまう。 階段ではつまずく。 キーをつけたまま、車のドアをロックしてしまう。 キャッシュカードはどこかに置き忘れる。 財布は電話ボックスに忘れてきてしまう。 セーターを洗えば、ツーサイズも縮めてしまう。 こんなわたしを、どうして彼は選んでくれたのだろう。 彼はいう。そんなことを気にすることはないよ。そんなつまらないことを。きみにはもっと大切な、すばらしいことがあるんだから、と。 そんなことって本当だろうか。 うたがうわたしの顔を、彼はじっと見つめているばかりだ。
彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていただろうか、とよく考える。 わたしのような女をつかまえていてくれる人は、彼のほかにいただろうか。 幼いころからわたしは、まぬけな女だった。おまけに神経質で、すぐに興奮する。 せっかく旅行に連れていってもらっても、つまらなそうにだまりこくっているかと思えば、急におうちに帰りたいとぐずりだす。 話しかけられても返事はしないし、近所の人にも挨拶はできない。 毎日のようにいじめられて帰ってくるし、そのくせ熱があってもかくして学校に行こうとする。 好き嫌いははげしいし、気にいらない服は絶対に着ようとしない。 宿題は忘れる。 せっかくおみやげに人形をもらっても、気にいらなければ押入の奥に隠してしまう。 彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていたのだろう。わたしが日々しでかすことの後始末を、彼はきちんとやっていってくれる。彼がいなければ、わたしはいったいどうしていいのかわからない。 わたしが眠りにつくとき、彼はいつも起きている。起きてわたしの顔を見つめている。 そして彼はいうのだ。 なにも心配することはない。なにも気にしなくてもいいんだ。 と。
わたしが眠りにつくとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない。 わたしが眠りにつくとき、彼はいつも目をさましている。 わたしが目をさますとき、彼はもう目をさましている。わたしが目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない。 わたしがふと夜中に目をさましたとき、彼はきっと起きている。わたしが夜中に目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない。 そんなとき、わたしは彼にたずねる。 あなたは眠らないの? と。 彼はこたえる。ああ、ぼくは眠らないのだ、と。 わたしは彼にたずねる。 あなたはどうして眠らないの? と。 すると彼はこたえる。きみを見ているのだ、と。きみを見ていなければならないから、ぼくは眠らないのだ。ぼくはきみを見ていなければならないから、けっして眠らないのだ。 きみはなにも心配することはない。なにも気にしなくてもいいんだ。 ぼくはけっして眠らずに、ここにこうやっているから。 わたしは彼のその言葉を信じることができる。 彼はけっして眠らない。 彼はけっして眠らない。