鯨油の歴史
鯨油の歴史 たとえば、甲板で乗員全員が集められた場面。白鯨に片足を奪われたエイハブ船長が、船員たちに向かってこうあおります。 「わしをちょん切って、わしを永遠のあわれな片輪者の船乗りにしたのは、あの呪わしい白い鯨だ! そうだ、そうだとも!
たとえば、甲板で乗員全員が集められた場面。白鯨に片足を奪われたエイハブ船長が、船員たちに向かってこうあおります。 「わしをちょん切って、わしを永遠のあわれな片輪者の船乗りにしたのは、あの呪わしい白い鯨だ! そうだ、そうだとも! わしはやつを追いまわすぞ、喜望峰をめぐり、ホーン岬をめぐり、ノルウェイの大渦巻きをめぐり、地獄の奈落をめぐり、追いまわし、追いつめるまで、わしはあきらめんぞ。よいか、おぬしら、おぬしらをこの船に乗せたのもそのためだ! あの白い鯨を大陸の両側の海ばかりか、世界の七つの海に追いまわし、黒い血糊(ちのり)を吐かせ、横倒しにするためだ! さあ、どうだ、おぬしら、これに手をかすか? おぬしらは剛の者と見うけるがな」(岩波文庫版)
(1)頭部の皮をはぎとり、頭に穴を開けて脳みそをくみ出す (2)下あごと頭を切り落とす (3)皮と肉の間にサスベリという刃物を当て、船上のろくろで鯨を回転させ、果物の皮をむくように鯨の皮を剥ぐ (4)鯨の肉と骨は海に捨て、皮と脳みそを煮立てる (5)油こしで、不純物を除いて、油を手に入れる
和歌山県太地港に引き揚げられたセミクジラ『白鯨』には、 《もしあの二重にかんぬきをかけた国、日本が外国に門戸を開くことがあるとすれば、その功績は捕鯨船にのみ帰せられるべきだろう。事実、日本の開国は目前に迫っている》 と書かれています。『白鯨』が出版されたのが1851年、そしてペリー艦隊が最初に日本にやってくるのがその2年後です。
そして、捕鯨技術を学び、その後、日本に帰国。開国後の1859年、幕府の「鯨漁御用」となり、日本にアメリカ式の遠洋漁法のやり方を広めます。 それまで日本では沿岸の鯨に網をかけて殺す漁が主流でした。 一方、アメリカ式は、母船から手こぎボートに乗ってクジラを追い込み、銛や槍で殺します。遠洋漁業の導入で、日本の捕鯨量も徐々に増加していくのです。
日本の網取り式捕鯨(『日本山海名物図会』)ノルウェー 20.9万トン イギリス 21.7万トン アルゼンチン 9万トン 日本 7万トン アメリカ 4万トン
制作:2014年9月1日<おまけ> 2011年3月、ハワイ沖の海底で捕鯨船「ツー・ブラザーズ号」の残骸が見つかり、モリや鯨油をつくる釜などが確認されました。 この船は、『白鯨』のエイハブ船長のモデルとなったポラード船長のもの。ポラード船長は1821年、「エセックス号」に乗っているとき、南太平洋でクジラとぶつかって沈没。このエピソードが『白鯨』になりました。その後、ツー・ブラザーズ号で航海に出たものの、座礁して再び沈没。これを機に捕鯨をやめたといわれています。 © 探検コム メール