大日本者神國也
おほやまとはかみのくになり。主に西日本方面を中心に大東亜戦期の軍事遺構(国防、軍事関連施設など所謂「戦争遺跡」)、英霊顕頌施設を紹介
▲三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所を現在の地図に転写①三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所②試験飛行場③滑走路④誘導路・掩体壕⑤特別地域指定線⑥滑走路拡張部分?⑦大日本航空 熊本航空訓練所⑧三菱熊本青年學校⑨健菱園(工員社宅)⑩寮(青年學校生徒、独身工員、徴用工)⑪秋津寮(女子工員、女子挺身隊)⑫水菱園(工員社宅)⑬三菱病院(未完成)⑭前菱園(工員社宅)⑮江津荘(出張者宿泊所、のち本部事務所)⑯側線※工場地区東側に熊本師管區高射砲隊が配備されていた様ですが、詳細な場所は不明です。
三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所(昭和20年2月から「第九製作所」、建設時略称:「カミク」(官設 民営 熊本製作所の略))は、昭和17(1942)年、陸軍航空本部経理部経理局により土地の買収が行われ建設された官設民営の製作所で、現在は工場地区が陸上自衛隊・健軍駐屯地、県営住宅、学校に、試験飛行場地区は住宅地、病院、学校に、社宅地区は住宅地になっています。
< 施設の概要 >当製作所では陸軍 四式重爆撃機「飛龍」(キ六七)の機体を製造、第十六製作所(大垣:発動機製作)から供給されるハ一〇四を組付け、各務原陸軍航空廠に納入していました。 ▲四式重爆撃機「飛龍」(キ六七) 第百七十爆撃隊(飛行第六十・百十戰隊混成)-熊本陸軍飛行場(熊本航空機製作所 試験飛行場)
< 遺構について >A 組立工場陸上自衛隊・健軍駐屯地に第一組立工場建屋が残されています。 ▲南東からの第一組立工場 設立当初の計画では建屋の幅はさらに西側に長い予定だったようです。 さらに東隣には第二組立工場が設置される予定でした。
四式重爆撃(全幅22.5m、全高5.6m)の最終組立をする工場だけあり、横幅90m×奥行220×高さ12mあります。 ▲北側の搬入出口 引き戸式の扉が付いています。
< 三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所(第九製作所)沿革 >明治17(1884)年7月7日、工部省長崎造船局の払い下げを受け、三菱財閥創業者・岩崎弥太郎により長崎造船所が創設されます。大正6(1917)年11月1日、三菱財閥二代目・岩崎彌之助により三菱合資會社から造船業を引き継いだ三菱造船㈱が設立されます。
大正9(1920)年5月15日、潜水艦建造用に購入した名古屋築港が深度が浅く建艦には不向きだったため自動車(直後に自動車は中止し、発動機に転換)・航空機の製造所として転用し、三菱内燃機製造㈱を設立、大正10(1921)年3月、三菱内燃機製造㈱ 名古屋工場を設立(10月1日、三菱内燃機㈱名古屋製作所に改称)します。
昭和3(1928)年5月1日、三菱内燃機製造㈱は三菱航空機㈱に改称します。
昭和9(1934)年4月11日、三菱造船㈱は三菱重工業㈱に改称、6月13日、三菱航空機㈱は三菱重工㈱と合併、名古屋製作所は三菱重工業㈱ 名古屋航空機製作所(以下「名航」)と改称します。
4月1日、名航に熊本航空機製作所(以下「熊航」)建設を担当する 第二建設部 (大塚敬輔部長)が設置されます。
9月、名航第二建設部は 臨時熊本工場建設事務所 と改称、名航内に名古屋事務室を残し熊本に移転します。
6月、臨時熊本工場建設事務所は 熊本工場建設事務所 と改称します。
昭和19(1944)年1月1日、未完成ながら 三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所 が開所(大塚敬輔所長)、以降も飛行機生産と工場建設が並行して行われます。 ▲大塚敬輔所長 名航で設計技師として活躍、㈱メッサーシュミット(ドイツ)派遣を経て 帰国後は管理職に昇進しました。
下請・協力会社は光洋鋳機(名古屋、鋳造部品製造)、高羽組(名古屋、機械の移動・設置)、三輪組 (名古屋、工場内雑労務下請)、山口木工 (熊本、木工備品納入) 、東肥航空 (熊本、排気管製管)などが担当しました。
2月、防諜上の見地から熊航は 第九製作所 と改称(以下の文は「熊航」で通します)します。
2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により『一般命令 第一号』が公布、我が国の軍需生産は禁止され、生産禁止品目が発表、10月10日、我が国の航空機生産・加工が禁止され、11月18日、『航空禁止令』が公布されます。三菱重工業本店は熊航以下14ヶ所の製造所・工場を閉鎖、 3製造所・工場の合併を進め、臨時航空機工場整理事務所を発足します。11月、熊航は 臨時航空機工場整理事務所 熊本出張所 となり、本格的な整理を開始しますが、12月、財閥解体により本店が経営活動に種々の制約を受け、受注、生産はもとより、資金調達まで各事業所の自主的活動に任され自活のため、航空機用のアルミを転用し弁当箱、鍋、バケツ、スコップ、ロッカーなど生活用品の製造を開始します。
昭和22(1947)年12月5日、熊航は自社所有機械を旧青年學校東隣の旧実習工場に移設し、 熊本機器製作所 (広兼美朗所長)と改称し、農機具生産に民需転換します。
昭和24(1949)年9月30日、経営難により三菱所有地の工場地区南側(旧青年學校・運動場・旧実習工場:49,000坪、建坪5,146坪)及び社宅地区(32,942坪、311棟)、工作機械528台を井関農機㈱に、北側の国有地(工場地区)は大蔵省に返還、10月1日、熊本機器製作所は閉鎖され、残務処理のため 臨時熊本機器整理事務所 (山口正晴所長)が旧青年學校内に置かれます(昭和25年1月11日、 西部整理事務所 と改称、11月3日、旧健菱園の寮に移転、昭和29年1月15月日、閉鎖)。
< 主要参考文献 >『健軍三菱物語 -熊本は東へ-』(平成元年12月 岡野允俊編 岩野書店)※同書についてはこちらのサイトで半分程度を抜粋・再編集した物を読むことができます。 ただ、熊航に関しては若干物足りないので、拙文章では原本を参考にしています。
・陸上自衛隊 健軍駐屯地 資料館
・国土地理院 空中写真(NI-52-11-4 2枚合成)
- 熊本陸軍飛行場(三菱重工業㈱熊本航空機製作所 試験飛行場) (2012/07/18)
- 三菱重工業株式會社 熊本航空機製作所(第九製作所) (2012/06/29)
- 熊本陸軍幼年學校 (2012/06/19)
- 第六師團関連の練兵場、射撃場、演習場 (2012/06/14)
- 小峰陸軍墓地 (2012/06/11)
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No Title- 2012-07-01(22:18) :
- 菊陽 URL :
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海軍機は陸軍機と違い命名基準がはっきりしており、 甲戦闘機(対戦闘機・水上戦闘機)は「風」(烈風、強風)、 乙戦闘機(対重爆・局地戦闘機)は「電」(雷電、紫電、震電)、 丙戦闘機(夜間戦闘機)は「光」(月光、極光)、 艦攻は「山」(天山)、 艦爆は「星」(彗星、流星)と言うように決まっていました。
- 2012-07-02(21:01) :
- 盡忠報國 URL :
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熊本から情報提供します。 【水菱園】上の画像の水菱園社宅、熊本地震でも倒壊しませんでした。しかし、平成28年夏の段階で「売物件」になってました。 【前菱園】水前寺地域の前菱園は、2軒長屋の社宅だったようです。長屋の片側(右半分のみ、左半分のみ)が、2か所残っていましたが、熊本地震前の平成28年3月頃にいずれも壊されました。
- 2016-12-12(22:06) :
- 通りすがり URL :
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- 2016-12-13(19:41) :
- 通りすがり URL :
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情報ありがとうございます。 約120坪でこの値段は安いですね! 購入者の方が住宅として住んでくれる事を望みますが、築70年超となると更地にして再利用と言うのが妥当でしょうね。
- 2016-12-14(23:07) :
- 盡忠報國 URL :
- 編集
- 2018-08-23(16:41) :
- 通りすがり URL :
- 編集
- 2018-08-25(00:27) :
- 盡忠報國 URL :
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遺構は飽くまで「物」であり、そこに関わった「人」の存在、歴史を理解してこそ遺構の調査、研究は成立すると考えます。-------------- 掲載写真、図面、資料、文章の無断転載は禁止します。当ブログを参照した際は度合いによらず必ず引用明記のうえリンクを張ってください。
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