人物事典風雲伝
これまで筆者は、戦国期関連の記事ばかり書かせて頂いたのですが、今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』にあやかりまして、(既に7月であり今更でございますが)、拙いながらも江戸幕末・維新期の方にも挑戦してみようかと思い至りました。
これまで筆者は、戦国期関連の記事ばかり書かせて頂いたのですが、今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』にあやかりまして、(既に7月であり今更でございますが)、拙いながらも江戸 幕末 ・維新期の方にも挑戦してみようかと思い至りました。 江戸幕末期(特に 黒船来航 以後の1853年~戊辰戦争前後の1868年頃)と言えば、江戸幕府と 京都 朝廷という二頭政府をはじめ、薩摩・長州・土佐・佐賀・水戸といった雄藩らが、「佐幕か尊王」、「開国か攘夷」か、という政治外交方針を巡って、戦場にて直接干戈を交え、時には裏工作で敵方勢力の弱体化・孤立化を謀る目まぐるしい外交戦も展開されたのは、日本国内においては中近世の戦国期と前近代の江戸幕末の2つの時代のみであります。 「戦国期(室町幕末期と言い換えてもいいかもしれませんが)」と「江戸幕末期」、共にそれまでの武家支配体制が大きく揺ぎ、混迷と動乱期に入った日本社会の一大転換点であった情勢は似ている部分はあると思いますが、江戸幕末期が、戦国期より更に難しい情勢であったのは、イギリス・フランス・ロシア・アメリカといった西洋列強と呼ばれた諸外国からの外圧があり、それらと外交折衝の必要性が、江戸幕末期の日本人に迫られたということです。
当時の日本が西洋列強と外交交渉を行うということは、現代の感覚からすると地球外生命体、つまり宇宙人と交渉するという奇想な展開と同等なものであったのではないでしょうか。(筆者が)そう勝手に思えば、江戸幕末の日本人、特に武家勢力は、良く宇宙人のような列強諸国と交渉したものだ、と感心してしまいます。 戦国期でも、南蛮人や紅毛人と呼ばれる西洋諸国(スペインやポルトガル)と交流を持ち、最新鋭兵器・鉄砲伝来やキリスト教布教などにより、中世日本社会や文化に多大な影響を与えたことは確実ですが、戦国期の日本が西洋諸国にから直に外圧(外征)を受け、その対応に迫られることがなかったことは、江戸幕末情勢と大きく違っています。しかしながら、中国故事の四字熟語に『乱世英雄』(超世の傑・曹操のこと、「後漢書」)があるが如く、乱世には多種多様の傑物および英雄たちが輩出されます。 日本では、中世の戦国期、近世では江戸幕末期がそうであります。戦国期の傑物は、 織田信長 ・ 豊臣秀吉 ・徳川家康の三英傑をはじめ各地方から強豪戦国大名も存在し、それらの諸勢力に仕える優れた猛将や能吏も多く存在したことは周知の通りであり、公家・商人・海賊衆・僧侶などの武将以外の人物も活発に動いていた時代でもありました。 約260年という世界史上でも稀に見る平和時代を経た後の動乱期となった江戸幕末期については、長期間の平和の中で開かれた学問や文化によって日本人が洗練され、教養深い武士(主に下級武士層)や庶民階級からは、殺伐とした雰囲気を持った戦国期とはまた一味違った傑物や奇才の持ち主らが誕生しました。 その好例的存在は、幕府は「 徳川慶喜 」・「 勝海舟 」・「小栗忠順(上野介)」・「 栗本鋤雲 」らが活躍。薩長土肥、つまり後の新政府側からは、朝廷の「 岩倉具視 」、薩摩では、幕末の名君の1人とされる 島津斉彬 に抜擢された「 西郷隆盛 」、その盟友「 大久保利通 」・「 小松帯刀 」、長州の「 桂小五郎 こと 木戸孝允 」・「 高杉晋作 」・「 大村益次郎 (村田蔵六)」、土佐は「 坂本龍馬 」・「 後藤象二郎 」・「 板垣退助 」、肥前佐賀からは名君「鍋島閑叟(直正)」・「 大隈重信 」・「 江藤新平 」。また上記以外のローカル方面からは、大坂適塾の創始者「 緒方洪庵 」、備中松山の学者「山田方谷」、その弟子とされる越後長岡の「 河井継之助 」、肥後熊本の「 横井小楠 」、石見津和野の「西周」、そして大河ドラマの主人公でお馴染みの「 渋沢栄一 」が登場しています。この人物らは何れも、鎖国体制下でありながら経済感覚や見識に優れていたり、海外情勢(或いは語学)に通暁していた俊英たちであることは疑いないことであります。 上記の江戸幕末期を代表する偉人たちが全身全霊で国難に当たり次代の礎を築いた雄姿は、テレビドラマや歴史小説で取り上げられ、我々現代人にも非常に馴染みがある名前ですが、それ以外にも活躍した賢人もまた実在したのも皆様よくご存知だと思います。かく言う筆者も、彼らの優れた人格、並外れた行動力と決断力には、とても惹かれ、彼らが我々と同じ日本民族ではなく、どこか別次元から誕生した人々なのではないだろうか?と感嘆させられることが否めません。
津田出 とは
前掲の有名な江戸幕末の偉人以外でも、近頃筆者が大いに惹かれる隠れた大人物がおります。それが、今回取り扱わさせて頂く、『津田出(つだいずる)、1832~1905』という徳川御三家・ 紀州藩 を出自とする武士であります。筆者が津田出を知る以前の幕末期の紀州藩についてのイメージは、 海援隊 の坂本 龍馬 との間で起きた海上トラブル、「 いろは丸 沈没事件」(1867年5月)の海難裁判において敗訴し、海援隊に賠償金を支払う破目になってしまう些か損な役回り、というものでしたが、そんな藩内にも、前掲の横井小楠や勝海舟ような先進的な構想力と並外れた行動力を持った津田出という逸材がいたのであります。
『津田出、通称:又太郎、号:芝山』、西郷隆盛や坂本龍馬らと違って世間一般にはあまり知られていませんが、間違いなく西郷たちに匹敵する偉人であります。白状しますとついこの間まで、筆者も恥ずかしながらこの紀州藩出身の偉人を全く知りませんでした。最初に津田出の存在を知ったのは、司馬遼太郎先生の名著『「明治」という国家(新装版)』(NHKブックス)を読んでからであります。 余談ですが、紀州藩と言えば、米将軍あるいは暴れん坊将軍の渾名として有名な江戸幕府8代将軍・ 徳川吉宗 、江戸幕末の動乱に翻弄させ夭折した悲劇の14代将軍・ 徳川家茂 (旧名:慶福)らの前歴は紀州藩主であり、明治期になると「カミソリ」という異名をとった切れ者外務大臣・ 陸奥宗光 、開明的な政治家・実業家として名高い浜口梧陵(ヤマサ醬油の7代目)などは紀州藩の出身であり、両者共に津田出の協力者となります。 更に余談を重ねてしまうと、世界初全身麻酔手術に成功した名医・華岡青洲は紀州藩領の村医(後に紀州藩士に取り立てられる)で、時代が下って現代では、「経営の神様」と謳われたPanasonic(旧:松下電器産業株式会社)の創業者・松下幸之助氏も旧紀州藩領こと和歌山県の出身者です。 上記の長い余談を見ると、日本の近世~現代にかけての政治・外交・経済・医学・文化という全般に渡って多大な影響を与えた紀州藩=和歌山県の出身者が多いということが改めて判り、江戸幕末の紀州人・津田出もそのカテゴリに入る偉人の1人であります。 司馬遼太郎先生は、津田出ことを 『天才的な経綸化』 と前掲の『明治という国家』の本文内で称されています。しかし先述のように、(つい以前の筆者が好例のように)、世間一般には知られていない津田先生です。津田出ことを調べようと、先ず例によってインターネットで文字検索しようと「津田」という字を打つと、検索候補には声優の津田健次郎さん(近年発売されたコーエーテクモゲームスのゲーム・三國志14で曹操役をやれていました)が先頭に出てきたことが印象に残っています。 上記のことは他愛もない筆者の記憶でございますが、Wikipediaにはしっかりと津田出の欄がありまして、本文に拠ると、有名な維新三傑の「西郷隆盛」「 大久保 利通」「木戸孝允」、それに津田出を入れて「維新四傑」と呼ばれることもあるそうです。成程!と思い、更にネット上で調べてみると、国会図書館デジタルコレクション内には、明治政府の国民向けの広告紙というべき「官報」をはじめ、幾らかの津田出関連の書籍および資料が掲載されておりました。 何度も重複して恐縮なのですが、津田出という現在あまり知られていない隠れた偉人ではありますが、知る人は知っているものでございます。『壺碑(つぼのいしぶみ)』(1917年刊、編者:津田道太郎(出の子息))と銘打った津田出の小伝が出版されていたり、明治大正と活躍した熊本県八代出身の大衆小説家・小山寛二著の短編小説集『江南碧血記』(1942年刊)の中で、主人公の1人として取り上げられています。更に、宗教学者・亀谷聖馨(かめや せいせい)が自著『精神講和』(1911年刊)の中で、亀谷が生前の津田出本人と直に談話した内容も掲載されており、それらが気軽にネット上で閲読することが可能です。 『日本という国は、出版文化が甚だ栄えた国でして(以下略)』と、さる講演会で仰ったのは司馬遼太郎先生ですが、現代では埋もれた偉人となってしまっている津田出関連の書籍、主に戦前に発刊された出版物を国会図書館デジタルで見つけることが出来たことを鑑みると、この司馬先生のお言葉を思い出します。 兎に角にも、前掲の書籍群を参考にしつつ、津田出の生涯を追ってみたいと思います。
津田出(又太郎)は、紀州藩士・津田三右衛門信徳の長男として、1832(天保3)年に 和歌山城 下にて誕生。津田家の先祖は、南北朝争乱の末期に 南朝 方で活躍した河内津田城の楠木政儀(有名な楠木正成の三男)の後裔と言われ、代々紀州徳川家に300石、「布衣(ほい)以上の頭役」で仕える家柄でありました。紀州徳川55万石という大藩での300石とは少し低い禄高と思えますが、役職は「布衣以上の頭役」。布衣とは幕府旗本の礼装を意味しておりますので、禄高300石と布衣の頭役である津田家の家格は、紀州藩における中級旗本と言えるのではないでしょうか。 津田出の父・津田信徳が教養人であったようで、出こと又太郎少年は、父から江戸中期に活躍した大学者(儒学)・荻生徂徠が確立した徂徠学、徂徠の弟子の1人である太宰春台の学問を徹底的に仕込まれました。 荻生徂徠は、徳川5代将軍・ 徳川綱吉 、8代将軍・徳川吉宗からの信任厚く政治顧問学者として仕え、形而上的思想(儀礼、身分など)に固執している朱子学を「虚妄」と批判。物事を合理な観点で捉えることを推奨しました。その好例の1つが、徂徠が8代将軍・吉宗に私信として献納した意見書「政談」であり、それには『身分に囚われず、実力本位で人材を登用するべきである』という一節があります。 徳川吉宗や徂徠在世当時(江戸中期)は、未だ士農工商の身分制が確固たる幕藩体制下であり、その時代に身分を無視して実力本位とする上掲の『荻生徂徠の人材登用案』は危険思想に近いものがありますが、その学説を紀州藩士の津田出少年が父の津田信徳から教授された事は、想像に難くなく、後年、出が大断行する藩政改革(『四民平均之事』)を鑑みれば、荻生徂徠の教えに影響を受けていたのでしょう。もっとも津田出が父から徂徠学などの教えを受けている少年期には、既に身分制と幕藩体制が破綻しつつある既に江戸幕末期であり、各藩、特に薩摩藩(好例が 調所広郷 )・長州藩(村田清風)・ 佐賀藩 などの西国雄藩で非門閥(下級)武士が積極的に登用され藩政に関わるが主流となっており、その時代的背景も津田出の思考法の下地になっていたこともあるかもしれません。 荻生徂徠のリアリスティックな学説を父から学び続けていた又太郎少年こと津田出は、元服前後の14歳(1847年)ぐらいになると今度は、オランダ語および洋書研究を熱心に始めるようになります。 江戸幕府の貧乏御家人を出自としている勝海舟(麟太郎)が、青年期に苦心惨憺してオランダ語を、ほぼ独学で習得した逸話は有名でありますが、津田出が少年期の頃(1830~1850年代頃)、オランダ語および洋書研究を生業としている蘭学者などは未だ幕府から弾圧対象にされる事が多く、奇才・高野長英や渡辺崋山など蘭学一派を弾圧した「蛮社の獄(1839年、津田出、当時7歳)」が有名であり、当時、蘭学者やオランダ語を習う人々にとっては肩身が狭い時期でした。 そういう風潮の中で、漸く青年期に差し掛かろうとしている少年、しかも徳川幕府の御三家である紀州徳川の藩士の家柄である津田出が、オランダ語学や洋書研究を目指そうといたのですから、強い意志と豪胆な性格を持っていたことがわかる上、将来、洋学の知識が世の中に必要になってくるという先見性を持っていたことも感じられます。 江戸幕府から忌避されていたオランダ語学や洋書研究分野ではありましたが、それでも主に 蘭方医 (先出の緒方洪庵、順天堂大学の開祖とされる佐藤泰然などが二大巨頭)で語学習得などが行われており、そこで津田出は、江戸の蘭方医・坪井信道の弟子の1人であった石垣蘭齋という蘭学者をわざわざ紀州和歌山に呼び寄せ、彼からオランダ語を学び、文典・理学・医書などの洋学研究を深め、特に出は西洋兵学の研究に没頭します。 1853年(津田出20歳)、即ち嘉永6年6月に、米国の ペリー提督 が 黒船 4隻を率いて浦賀沖に来航したことが一大転機となり、日本国内は、「佐幕・開国」「尊王・攘夷」といった国体を巡る江戸幕末動乱期が本格化し、幕府および諸藩は「海防」に必要な武備が急務となり、それに伴って語学・産業・西洋軍事などの洋学研究が、遂に盛んになってゆくのですが、紀州和歌山で、洋学研究を行っていた津田出も青雲の志を達せんとし、当時の年少紀州藩主・徳川慶福(後の家茂)の許可を得て、和蘭兵学研究のために江戸へ遊学することになりました。 若干20歳ぐらいの津田出が、江戸赤坂にある紀州藩上屋敷に到着した直後だと思いますが、紀州藩執政家老の水野土佐守、執政重役の斎藤政右衛門が中心となり、紀州藩蘭学稽古所の新設。出は、土佐守らによって蘭学教授を拝命することになり、他の藩士たちに語学や洋学を教える一方、自身は西洋兵学研究のみに留まらず、諸外国の政策や万国公法についても学び、幅広い知識を身に付けてゆきました。ここに来て、津田出が未だ和歌山に居住している折(蘭学者への圧力が未だ強い時期に)、独自でオランダ語や西洋兵学を学んでいた経歴が活かされることになったのです。正に普段の勉学修養が大切であるということを考えさせられます。 後に、司馬遼太郎先生が言われるが如く、30代の津田出が『天才的な経綸』の能力を発揮し、紀州藩内で政体・軍事・殖産興業の全てにおいて近代政府のプロトタイプを、東京に樹立した明治新政府に先んじて、創り上げることになりますが、この時の大改革で活かされた津田出の経綸の才の礎および軍政改革に挑む強き意志は、上記の若き頃の江戸遊学での修養によって築かれた、と言っても間違いではないでしょう。 津田出の富国強兵案、(「国防論」と言い換えてもいいかもしれません)に関しての考えを窺える彼自身の言が、小伝『壺碑』本文に載っています。
⓵『無戦論も、知識の上から来るのは之も甚だ待遠のことじゃ。併し、此方は随分武力を統一して其実力に由れば、出来ぬことではない』
更に津田出は、軍事増強のみを謳っている(後の昭和期軍人のような)武備一辺倒の人物ではありません。殖産興業にも着手し、民力と国力を富ませることを何より重視しており、⓶『利世安民 天下弘済』(『壺碑』文中。世を利し民を安んじて、天下を広く濟う)という想いが、津田出の政治哲学の根本にあったのです。 『利世安民 天下弘済』という想いも、津田出が少年期に父・津田信徳から学んだ太宰春台(荻生徂徠の弟子)の『経済録』にある『天下國家を治むるを經濟と云、世を經め民を濟ふ義なり』という、即ち『経世済民/経国済民』の考えから強く影響を受けたと思われます。 因みに、後年紀州藩内で、津田出の政治方針に賛同した一派を「経国派」と呼ばれ、出の他に浜口梧楼もそれに属して、藩政改革を推進していくことになります。
上記の⓵『武備統一論』と『利世安民 天下弘済』という津田出の発案と思想は、明治新政府の大方針となる富国強兵政策より先立つものであります。津田出のみならず、他にも信州松代藩士の 佐久間象山 、その弟子である勝海舟、坂本龍馬、横井小楠など現代でも有名な幕末の先覚者たち、更に時代が下った大正期の政治家/海軍軍人である「偉大なステイトマン(政治家)」と諸外国から称賛された加藤友三郎も、出と酷似した言動および思想を持っていました。 津田出の発案が先か、佐久間象山たちの立案が先なのか?それは今となっては判別するのは困難でありますが、いずれにしても現代では無名に近い津田出も、有名な江戸幕末期の先覚者らと同様の考えを持っていた開明的な人物であったこと筆者は主張したかっただけであります。
津田出が療養生活に入った翌年の1858年、中央政府たる江戸幕府では、13代将軍・ 徳川家定 が、後嗣を決めずに死去。大老・ 井伊直弼 が、紀州藩主であった徳川慶福を14代将軍として推戴。慶福が徳川家茂になるのは周知の通りであります。空位となった紀州藩主は、紀州藩の連枝である伊予西条藩出身の松平頼久が幕命により就任。これが『 徳川茂承 (もちつぐ)1844~1906)』であります。中級藩士を出自とする津田出を大抜擢して、藩政改革を敢行。そして成功させた紀州藩最後の明主であります。 新紀州藩主・徳川茂承は、病気により隠退していた津田出を、御小姓兼奥祐筆組頭に任命。彼を自身の近臣または学友として侍らせました。司馬遼太郎先生の言を拝借して譬えさせて頂くと、津田出は紀州藩の『公文書を書く役目の長/文書課長』(『「明治」という国家』文中)として、藩の諸政務に携わることになったのです。 1864年、幕府主導による第1次長州征討が起きていますが、この時も津田出は発病し、一旦は公職から身を退いています。翌年の第2次長州征討(1865年)が勃発すると、藩主・徳川茂承は、幕軍先鋒総督に任命され戦前へ赴くことになります。茂承は、紀州藩の軍事面を紀州藩家老の安藤直裕を、先鋒総督として登用する一方、内政面には津田出を御用取次並として起用して、紀州藩内の執政を一任しました。そして、津田出は、先進的な藩政改革(軍政改革)を画策するようになります。 余談ですが、第2次長州征討の折、紀州軍に従軍している侍の中に、下級武士の酒井伴四郎(1834~没年不祥、 禄高30石 衣紋役方)という人物がいますが、彼が江戸勤番時に書いた「酒井伴四郎日記」は江戸幕末期の食生活や下級武士の生活風俗などを知る上で、貴重な史料となっていますが、この日記を基にして書かれた人気漫画が、土山しげる先生原作の『勤番グルメ ブシメシ!』であり、2017年には、NHKで瀬戸康史さん主演でテレビドラマ化されました。 酒井伴四郎以外にも、日本人で最初のノーベル賞(物理学)を受賞された偉大な湯川秀樹博士、東洋史学/中国文学の第一人者であられた貝塚茂樹・小川珠樹の両大先生の祖父にあたる「小川駒橘(明治期には実業家)」も長州征討軍に従軍しており、有名な石州口の戦い(この方面の長州軍の総大将は大村益次郎)で紀州軍が敗走した折、駒橘は槍を振るって殿を務めたと言われています。津田出こそは、紀州藩における蕭何(中国の楚漢戦争期の漢軍の宰相/内政総責任者)的立場であったので、長州征討には参戦していませんが、紀州藩の出征軍側には、偉大な方々のご先祖様がいたことは、何とも感慨深いものを感じます。
第2次長州征討は、長州軍の大村益次郎や高杉晋作といった天才的指揮官、最新鋭兵器と優れた戦術(散兵攻撃)を駆使した有名な 奇兵隊 など民兵隊の活躍があって、大軍(一説には10万以上の軍勢)を擁している幕府征討軍は、僅か5千ほどの兵力しか持たない長州を降すことも能わず、更に1866年7月、征討軍総大将として大坂城に在陣していた14代将軍・徳川家茂が21歳の若さで病没。征討軍は撤兵を余儀なくされ、結果的に長州藩の勝利(国土防衛成功)になりました。即ち、それまで戦闘のプロであった武士団、その総長である幕府軍が、一藩が主力とする民兵集団に敗北してしまったのであります。これにより、江戸幕府の権威は一挙に衰退していきました。 幕軍に属し敗残の将の一員となってしまった紀州藩主・徳川茂承は、最早、藩内で長年、太平楽をかこっていた門閥武士団の軍制、つまり封建体制では、江戸幕末期の動乱を生きてゆけないことを痛感し、長州征伐時(1866年5月)に、執政・津田出から提出されていた紀州藩を大刷新させる『藩政改革案』を採用することを決めました。 津田出が提出した藩政および軍制改革案は、 『御国政改革趣法概略表』 という何とも長文かつ格式高さを感じるタイトルであります。事実、この改革案は江戸期270年というより、 鎌倉 期から連綿と続いていた約700年の武家体制/封建制度を抹殺するという、(武家、特に身分が高い門閥武士から見れば)大仰かつ強烈過ぎるものでした。その概要は以下の通りです。
⓵『郡県制』の確立、廃藩置県の魁。 ⓶『四民平均』の確立、士農工商の身分を撤廃。 ⓷『交代兵(徴兵制)』の確立、長州藩の奇兵隊が好例のように、四民からなる士官・兵隊を組織。西洋式軍事調練を徹底的に施すことにより、機動性に優れた完全なる西洋式軍隊を創設。 ⓸政治最高機関である『政治府』と『民政局』、『開物局』(現在の経済産業省相当)、『会計局』(財務省相当)など役所を藩内各郡に設置し、殖産興業(特に皮革産業)の施行および藩財政の把握。 ⓹『刑法局』を開設し、裁判制を施行。 ⓺西洋式農業、特に酪農畜産業を興し、牛馬の飼育を奨励。 ⓻病院、学校(洋学校)の設立。
等々、2年後(1868年)に京都誕生する明治新政府が中央政権体制を確立するために、19世紀後半(明治初期)に敢行する諸政策の中で、『行政機構=省庁の開設(1869年、明治2年)』『廃藩置県/四民平等(1871年、同4年)』、『学制(1872年、同5年)』、『徴兵制(1873年、同6年)』などがありますが、江戸幕末期に、薩長土肥側に属さず、一地方藩士に過ぎない津田出が、明治政府よりも数年早く、郡県制や身分制の撤廃、殖産興業の改革案を打ち出し、「紆余曲折」を経て断行。しかも成功しているのであります。因みに雄藩の長州藩がほぼ同時期に、高杉晋作と大村益次郎が主体となって軍制改革を断行し、庶民層から成る近代軍隊の創設に、いち早く成功しているのは有名であります。 先述の「紆余曲折」というのを少し説明させて頂くと、前述のように津田出が藩主・徳川茂承に改革案を提出したのは、先述の通り第2次長州征討最中の1866年5月であり、翌年、出は茂承によって「国政改革制度取調総裁」に任命され、藩政改革に着手しようと試みます。しかしながら藩内の 保守派 (改革反対勢力)の激しい抵抗に遭ってしまい、折角の藩政改革も頓挫。更に津田出の後ろ盾であった藩主・茂承も反対派に強要される形で、出を解任し、禁固刑の処分を与えました。これが1867年10月のことであり、津田出35歳の壮年期でした。
政局変動激しい当時に存在した幕府・朝廷といった二極政府をはじめ、全国に点在する各藩内部は、「幕府派vs勤王派」或いは「開国派vs攘夷派」といった派閥が濫立し、対立するのが日常的になっていました。雄藩である薩摩藩・長州藩もそうでしたし、最大藩である北陸の 加賀藩 にもありました。勿論、津田出の紀州藩も例外ではなかったのです。 津田出が藩政改革に乗り出そうした時期の紀州藩内部は、以下の派閥が存在したと言われています。
1.「経国派」:幕府・勤王の両派中立に属し、殖産興業など藩政改革を推進する。津田出が属します。 2.「激進 改革派 」:幕府・朝廷の同一化、即ち 公武合体 を望み、根本的に藩内改革を断行を推す。有本左門、田中善蔵らが属す。 3.「温進改革派」:公武合体を望み、時流に沿った藩政改革を行うことを推す。水野大炊頭、斎藤政右衛門らが属す。 4.「勤王派」:これは文字通り。天皇一統を望む。伊達宗広(陸奥宗光の実父)、菊池海壮らが属す。 5.「守旧派」:勤王派・改革派に断固反対する保守派。安藤直裕(飛騨守)、久野純固(丹波守)らが属す。
(上記の参照元:「社会学研研究科紀要 第15号 1975」より)
津田出の藩政改革案に猛反対したのは5.「守旧派」であり、安藤は紀州藩の支藩(宿老)と言うべき紀州田辺藩の藩主、久野も紀州藩の城郭・田丸城の城代を務める格式高い家柄でした。 『藩を廃して郡県を確立』『武士身分を排し、徴兵制を立ち上げる』という下役藩士如の津田出づれが出した改革案は、代々紀州藩の大物として圧倒的存在感を放っていた守旧派から見れば、正しく天地がひっくり返るのような驚き、そして怒髪衝天なものあったことは想像に難くありません。何と言っても自分たちの高地位と家禄が一挙に完全消滅するのですから。『又太郎、藩主様のご信頼が厚いからといって、調子に乗るな!』と守旧派の人々は、津田出のことを罵倒したことでしょう。 代々、紀州藩の家老と務めてきた安藤直裕・久野純固らが藩政改革に猛反対したのですから、藩主であり津田出の後ろ盾であった徳川茂承も、藩政改革を断念し、出を完全に守れなかったのでしょう。また津田出が失脚した翌月(1867年11月)には、出の同志というべき田中善蔵(前掲の2.激進改革派の1人)が白昼堂々暗殺される事件も発生しています。田中暗殺事件の主犯として守旧派の久野純固が容疑者として挙がったこともありましたが、後に久野は無罪となっています。 いずれにしても津田出が失脚した1860年後半の動乱激しい江戸幕末の最終局面でも紀州藩は、保守的勢力が強力であったことがわかります。これも江戸幕府に連なる名門藩閥であったので、体面や武家秩序には墨守的だったのでしょう。 しかし、津田出が失脚を余儀なくさた僅か1ヶ月後の1867年11月9日、京都に在する江戸幕府15代将軍・徳川慶喜により、有名な『大政奉還』(坂本龍馬立案)を布告し、政権を京都朝廷に返上。武家政権の長たる江戸幕府という政府は事実上消滅した結果となり、その驥尾に付していた紀州藩の存続も危ういものとなってしまいました。そして、紀州藩をはじめとする佐幕勢力にとって追い討ちをかけたのが、公家・岩倉具視と薩摩藩(西郷隆盛・大久保利通)が主導した『王政復古の大号令』と『 鳥羽伏見の戦い 』(共に西暦で言えば1868年1月)であります。 鳥羽伏見の戦いで「朝敵・逆賊」となった徳川慶喜や旧幕府軍、それに連なる紀州藩は、官軍・朝廷(新政府)勢力から敵視されるようなり、藩主・徳川茂承は朝廷の命令により単身上洛を命じられた挙句、同地に軟禁状態に陥ります。これにより守旧派が主体となっていた紀州藩は、正しく危急存亡の秋を迎えていました。ここに至り、藩主・徳川茂承および守旧派の重役らは、先年蟄居処分を与え、紀伊国那賀郡小倉という村落に隠遁していた津田出を再度出仕させ、藩全体が不退転の決意を以て藩政改革に着手させることを決めました。時に1868年11月であり、既に明治元年となっていました。 紀州藩の藩政とその改革に復帰した津田出は、新政府によって京都に留め置かれている藩主・徳川茂承を追って上京します。そこで、出を待っていたのが、茂承の他に、新政府の宮中および国内の行政長官(輔相)の岩倉具視、そして、出の同郷(後輩)にして外国事務局御用係という役職に就いていた陸奥宗光であります。 津田出は、陸奥宗光との会見に臨み、かねてより構想していた中央政権による郡県制、四民平等、徴兵制の趣旨を披露。その先進的の政治構想に陸奥宗光は大いに感銘を受け、是非とも紀州藩内でその政体実現に着手するように提言しました。岩倉具視も津田出の改革案に大いに感心したと言われています。 後にカミソリ外務大臣として、その辣腕を大いに振るう陸奥宗光ほどの大政治家が、同郷先輩である偉人・津田出を『私は、 伊藤博文 閣下や 井上馨 閣下は畏れはしないが、津田先生だけは畏れた。』という意味合いの事を言い残しているので、明治元年に津田出に会って先の政治構想を聞いたことが、非常に印象的であったのでしょう。また何度か本文で触れさせて頂いている津田出の小伝『壺碑』の序文が3項ありますが、その内の1つを陸奥の長男・陸奥広吉が寄せており、『芝山津田出翁は、南紀の逸材にして識見経綸、一世に傑出し(以下略)』と書き始まっています。父と同様に陸奥広吉も、津田出を畏敬していたことを覗わせます。
陸奥宗光、岩倉具視以外にも、紀州藩の隠れた偉人、天才的経綸家である津田出のことを評価した新政府の重役がいました。即ち、大久保利通、西郷隆盛の明治新政府の双璧というべき大物であります。 大久保利通は、『大久保利通日記』(1871年/明治4年8月1日付)内で、西郷隆盛と共に津田出と面談したことを記した上、彼を『実に非凡なる人物』と評しています。正しく沈着剛毅という四字熟語に相応しい新政権の宰相である大久保利通が、短文ながらも自身の日記で津田出を上記の如く評したというのは瞠目させられます。 紀州藩を改革に成功した偉人・津田出に会って高見を聴きたいと強く願っていた西郷隆盛は、面談が実現する約3ヶ月前の5月4日に、紀州藩大参事の山本弘太郎に書簡を宛て、そこには『私の御願い(津田出との面談)をお聞き届け頂けますよう宜しくお願い致します。』といった意味合いで、丁重に山本へ書いています。また津田出との面談をした後、西郷隆盛がいよいよ出に対して尊敬の念を強くして、新政府の舵取りと切り回しは 『是非とも津田出先生に任せるべきである』 と、(一時的ながらも)周囲に公言していたのも事実であります。(尤も西郷隆盛嫌いであった佐賀出身の政府重役の大隈重信は、西郷が推す津田出のことも差ほど評価していなかったという事実もあります) 上記の西郷・大久保の津田出評は、既に出が紀州藩の大改革を断行して大きな成果を挙げている時ですが、武力を用いて江戸幕府を討滅した明治新政府にとって、今後の新国家モデルの指針を示してくれる、つまり経綸の才を持っている人物を探しており、それが津田出であったのであります。
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