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【戦争秘話】沖縄上空で米軍を迎え撃った男たちの「過酷すぎる戦い」
【戦争秘話】沖縄上空で米軍を迎え撃った男たちの「過酷すぎる戦い」

【戦争秘話】沖縄上空で米軍を迎え撃った男たちの「過酷すぎる戦い」

2020.03.26
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【戦争秘話】沖縄上空で米軍を迎え撃った男たちの「過酷すぎる戦い」

搭乗員たちが見た「空の沖縄戦」第1回

神立 尚紀

カメラマン・ノンフィクション作家

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太平洋戦争末期の昭和20(1945)年3月26日、アメリカ軍が慶良間諸島、次いで4月1日には沖縄本島に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。

あれから75年――。地上戦ばかりがクローズアップされがちな沖縄戦だが、航空部隊も、押し寄せる敵の大軍に一矢を報いようと必死の戦いを繰り広げ、特攻隊だけでも3000人を超える、多くの若い命が失われた。戦力が圧倒的に劣る絶望的な戦況のなか、沖縄の空を飛んだ男たちは何を見たのか。3回にわたってお届けする。

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「特攻機が全機命中しても、敵にはかすり傷」

「雲の多い日でした。一面の雲海の上を高度5000メートルで飛び、沖縄上空に到達すると、中城湾に、海面を埋め尽くすほど多数の敵艦艇がひしめいているのが見えた。それまでに見たことも想像したこともないほどの数です。

私は12機を率いて30分間、上空警戒にあたりましたが、その間にも特攻機が敵艦に突入したと思われる黒煙が、幾筋も立ち上るのが望見されました。しかし、どう見ても味方の飛行機よりも敵艦艇のほうがはるかに多い。たとえ特攻機が全機命中しても、敵にかすり傷程度しか与えられまい。戦いはもう、来るところまで来たな、そんなことをふと考えました」

と、昭和20(1945)年4月6日、沖縄に来襲した敵艦船を攻撃するため、九州に展開した日本陸海軍航空兵力の総力を挙げて行われた「菊水一号作戦」で零戦隊の一隊を率い、鹿児島県の笠之原基地から出撃した植松眞衛大尉(当時23歳。第三五二海軍航空隊分隊長)は語る。

植松眞衛・元大尉。昭和20年4月6日、零戦隊の一隊を率いて沖縄に出撃。翌7日には戦艦「大和」の最後の上空直衛に任じた。戦後は伊藤忠商事に勤務(撮影/神立尚紀)

沖縄への上陸に先立つ3月18日、アメリカ海軍機動部隊は、のべ940機の艦上機をもって九州各地の日本軍航空基地を空襲。翌19日には呉、阪神地区の艦船と工場、九州北部の航空基地をのべ約1000機で攻撃した。

これは、サイパン、テニアンや硫黄島への上陸の際にも見られた、大規模な上陸作戦を前にまず周辺の日本軍基地の抵抗力を奪うという、米軍の常套手段である。

昭和20年3月23日、南西諸島が敵機動部隊の空襲を受け、26日には米軍の一部が慶良間諸島に上陸。

そして4月1日、猛烈な艦砲射撃ののち、米軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始した。米軍はその日のうちに沖縄の二ヵ所の飛行場を占領し、早くも4月3日には小型機の離着陸を始める。

昭和20年4月、沖縄にまさに上陸しようとする米軍上陸用舟艇

この米軍の動きに一矢を報いようと発動された航空作戦は「菊水作戦」と呼ばれ、4月6日、その第1回として海軍機391機、陸軍機133機の合計524機が出撃した。うち特攻機は、海軍215機、陸軍82機の計297機。海軍特攻機の未帰還は162機だった。米軍記録によると、この攻撃で駆逐艦3隻と上陸用舟艇1隻が沈没、戦艦1隻、軽空母1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦15隻など計34隻が損傷したという。

この沖縄への第一次航空総攻撃を「菊水一号作戦」と呼ぶ。沖縄上空で植松大尉が見たのは、この日の戦いの一断面であった。

特攻出撃する「大和」の護衛に

同じ日、戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦8隻からなる艦隊が、「海上特攻隊」として、沖縄に向かうべく徳山沖を出撃している。植松大尉は4月7日、第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将の命を受け、零戦12機を率い、今度は鹿児島県西南方を航行中の「大和」の上空哨戒にあたった。植松の回想――。

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「『主トシテ敵哨戒機ヲ撃攘スベシ』との命令でした。この日も雲が低く垂れこめていて、『大和』の発見には苦労しました。艦隊の位置は佐多岬の270度(西)、距離70浬(約130キロ)との情報を得ていたので、硫黄島、黒島を経て、目標となる草垣諸島を探したんですが視界不良で見当たらず、ようやく雲の合間に艦隊を見つけたのが午前9時。

そこで、先に哨戒にあたっていた二〇三空の零戦と交代し、雲の下、高度300メートル以下の低空を旋回しながら護衛しました。『大和』の甲板から手を振る乗組員の姿が見えましたよ。私の隊が飛んでいる間には、敵機は姿を見せませんでしたが……。

笠之原基地に還ってしばらくしたところで、『大和』が敵機の襲撃を受けていることを知りました。燃料の都合もありますし、圧倒的多数の敵機の前には、上空にいても結果は変わらなかったと思いますが、暗澹たる気持ちになりましたね」

植松大尉の零戦隊が引き揚げたあと、敵艦上機の波状攻撃を受けた「大和」は、4月7日午後2時23分、大爆発を起こし沈没。「海上特攻隊」は、「大和」「矢矧」と駆逐艦4隻を失い、3700名を超える戦死者を出して、沖縄突入を果たせず壊滅した。

戦艦「大和」は、昭和20年4月7日、米艦上機の攻撃を受け、大爆発を起こして沈没した

「あと2時間半の命です。ではお先に」

日本側は沖縄の米軍に反復攻撃をかけるべく、日本各地に展開していた実戦部隊を順次、九州の各航空基地に集結させ、消耗した部隊には飛行機の補充を図った。

鹿児島県の国分基地に進出した第六〇一海軍航空隊の岩井勉少尉(当時25歳、のち中尉)は、昭和15(1940)年、零戦のデビュー戦に参加した歴戦の搭乗員である。岩井は、4月3日の特攻隊前路掃討を皮切りに、沖縄への出撃を重ねたが、その間、どうしても忘れられないひとコマがあるという。

岩井勉・元中尉。出撃直前の特攻隊員と司令長官のやりとりが忘れられないという。戦後は米穀会社経営(右写真撮影/神立尚紀)

「九九式艦上爆撃機の特攻隊に、ベテランの飛行兵曹長がいました。私より若いが妻帯者で、戦歴も技倆も相当のものです。その彼が、4月6日、菊水一号作戦で特攻出撃前の整列のとき、司令長官・宇垣纏中将に、『質問があります』と手を挙げた。『本日の攻撃において、爆弾を百パーセント命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか』と。長官は即座に、『まかりならぬ!』と、一喝しました。

『かかれ』の号令のあと、彼は私のところへ駆け寄ってきて、『いま聞いていただいた通りです。あと2時間半の命です。ではお先に』と言い置いて、機上の人となりました……」

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横須賀海軍航空隊(横空)戦闘機分隊長・岩下邦雄大尉(当時24歳)は、笠之原基地の第二〇三海軍航空隊(二〇三空)へ増援する零戦の空輸を命じられ、4月6日、12機を率いて横須賀から笠之原に飛んだ。

岩下邦雄・元大尉。横須賀から鹿児島・笠之原基地へ空輸任務で派遣され、そのまま現地で零戦隊の指揮官となった。戦後は魚粉会社を経営(右写真撮影/神立尚紀)

「笠之原基地に着いたときにはすでに暗くなっていて、着陸灯を頼りに着陸すると、基地は、何やらものものしい雰囲気でした。菊水一号作戦で出撃した飛行機が、相次いで帰還する時間だったんです。

そこで、二〇三空司令・山中龍太郎大佐に空輸完了の報告をしたところ、『ちょうどよいところに来てくれた。実は今日、飛行隊長の神崎國雄大尉が奄美大島上空で戦死したので、当分の間、君に戦闘機隊の指揮をとってもらいたい。空輸搭乗員も全員一緒に戦ってもらう。横空司令にはこちらから了解をとるから』と言われました。

空輸がすんだら横須賀に帰るはずでしたが、戦争ですから否応はありません。全く思いがけず、私たちも菊水作戦に参加することになりました」

と岩下は振り返る。

沖縄上空で展開された大空中戦

4月12日、「菊水二号作戦」と称して、ふたたび沖縄の米軍に対する航空総攻撃が行われた。岩下は、敵戦闘機を引きつけて攻撃隊の前路を切り開くため、各部隊から寄せ集められた零戦96機の総指揮官となり、うち33機を直接率いて出撃する。

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「酸素マスクをつけて高度5000メートルで進撃しましたが、沖縄上空に到達したときには敵機の姿はなかった。海上には無数の敵艦艇。前年、フィリピンのミンドロ島に押し寄せる敵上陸部隊を見たときもそうでしたが、バケツ一杯の羽毛を海面にまき散らしたかのような、思わず目を瞠る光景でした。

敵戦闘機をおびき出すという目的にしたがって旋回を続けるうち、はるか下方の飛行場から赤い土煙がもうもうと上がり、敵戦闘機が続々と離陸しているのが見えた。10数分後、厚木の第三〇二海軍航空隊から派遣されていたベテランの赤松貞明少尉機が、サッと私の機に近づき、バンク(機体を左右に傾ける動作)をしながら斜上方をさかんに指さす合図をしてきました。その方向に目を凝らすと、豆粒より小さく見える敵機の大群がこちらへ向かってくる。私は増槽(落下式燃料タンク)の投下把柄を引き、翼をひるがえして増槽が落ちてゆくのを確認すると、大きくバンクを振って戦闘開始を下令しました」

たちまち、沖縄上空で大空中戦が展開された。紅蓮の炎をあげて墜落する戦闘機、落下傘降下する搭乗員、碧い海面には墜落した飛行機の波紋があちこちに広がって見える。

「そのうちに、敵戦闘機・ボートシコルスキー(チャンスボート)F4Uコルセア4機が、私の機に攻撃をかけてきました。私の零戦は胴体に白線2本の指揮官標識が描かれていたので、恰好の目標になったんでしょう。

後上方から次々に攻撃をかけてくる敵機が機銃を発射する寸前に、急旋回して敵機の腹の下にもぐり込むことで射弾をかわす動作を繰り返しながら、スピードを落とさないよう高度を下げていき、ついに数百メートルにまで下がった。

こうなると、急角度で突っ込んでくる敵機は海面に激突する危険が出てきます。入れかわり立ちかわり、執拗に攻撃してもさっぱり効果がないので、とうとうあきらめたのか、敵機は私を追うのをやめ、引き揚げていきました。機銃弾を撃ち尽くしたのかもしれません」

ようやく余裕を取り戻した岩下が上空を見上げると、すでに沖縄の空に敵味方の機影はなかった。岩下は単機で帰途についた。

「島の上空は敵戦闘機が待ち伏せしている危険があると判断して、針路をやや東寄りにとって飛んでいると、はるか左前方を零戦が2機、奄美大島に向かって飛ぶのが見えました。無線はうまく通じない。危ないぞ、と思って心配していると、奄美大島上空で待ち構えていたグラマンF6F ヘルキャット3機がこの零戦の後方から襲いかかり、2機とも瞬時に火を噴いて撃墜されてしまいました……」

笠之原基地に着陸、機体を点検してみると、不思議なことに1発の被弾もない。岩下は、零戦のすぐれた旋回性能に礼を言いたいような気がしたと言う。

空輸中の零戦五二型乙。かつて無敵を誇った零戦も、昭和20年には敵新鋭機の前に苦戦を強いられていた 沖縄戦当時、日本軍を苦しめた米海軍・海兵隊の戦闘機、グラマンF6Fヘルキャット(上)と、ボートシコルスキー(チャンスボート)F4Uコルセア(下)

その後、岩下は4月16日の「菊水三号作戦」をはじめ、九州各地に来襲する敵艦上機や、大型爆撃機ボーイングB-29の邀撃に出撃。4月29日には三号爆弾(空中爆弾)でB-29を1機撃墜、その巨体がゆっくりと螺旋状に降下しながら霧島山に激突するのを見届けている。

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5月に入って、岩下以下、横須賀海軍航空隊からの助っ人たちは本隊からの命令でようやく横須賀に復帰したが、その間に数名の戦死者を出していた。

「なぜ空輸隊が、所轄外の航空隊で当初の任務以外の作戦に従事することになったのか、その間の指揮命令がどんなふうに変更されていったのか、いまもって腑に落ちないままです。ここで戦死した部下たちのことを思えばなおさらですよ」

歴戦の『撃墜王』呆気ない最期

4月12日の「菊水二号作戦」では、愛媛県の松山基地から鹿児島県の鹿屋基地に進出していた、菅野直大尉(当時23歳。戦死)が率いる第三四三海軍航空隊の戦闘機「紫電改」42機(うち2機は故障で発進取り止め、8機は引き返す)も、特攻隊の前路掃討のため出撃。喜界島上空で敵戦闘機F6F、F4Uの大編隊と空戦を繰り広げている。この空戦に参加した笠井智一上飛曹(当時19歳)の話。

紫電改に搭乗し、特攻隊の前路掃討に出撃した笠井智一・元上飛曹。戦後、セメント会社勤務(右写真撮影/神立尚紀) 昭和20年4月12日、「菊水二号作戦」で、紫電改を率いた菅野直大尉。終戦の二週間前、8月1日に戦死する

「私は、小隊長・杉田庄一上飛曹から常々、『いいか、空戦になったら絶対に俺から離れるな。墜とすのは俺が墜とす。俺が撃ったら、お前たちも敵機は見えてなくていいから同じように撃て。そしたら協同撃墜になるんだから』と言われていました。

杉田上飛曹は、ラバウルで激戦をくぐり抜けてきた日本有数の『撃墜王』で、空戦で負った火傷のケロイドが顔に生々しく残っていました。戦後知ったことですが、山本五十六聯合艦隊司令長官が戦死したときの6機の護衛戦闘機の一人でもありました」

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だがこの日、乱戦のなかで笠井は杉田機を見失い、無我夢中で敵機と渡り合って2機に機銃弾を命中させ、やっとの思いで生還する。

「着陸してただちに指揮所に向かい、直立不動で挙手の礼をして、『笠井上飛曹帰りました。2機撃墜』と報告。するとそのとたん、先に帰っていた杉田上飛曹から、『こら、笠井。お前は撃墜を確認したか? 馬鹿者、撃墜というのは確実に海面に墜ちるのを見届けた上でのことだ。お前がやったのは、なるほど煙は吹いたが墜ちてはおらん。あれは不確実だ!』と一喝され、大目玉を食ってしまいました。

しかし、あれほどの歴戦の勇士となると、空戦中の部下の動きもちゃんと見てくれているんですね。編隊を離れた罪滅ぼしのビンタをもらいましたが、単機になって自分も危うく撃墜されるところでしたから、じつにありがたいビンタでしたよ」

沖縄へ出撃する日本軍航空兵力を叩こうと、九州の各航空基地に対する米軍機の空襲も激しさを増してくる。そして4月15日――。

「午後2時50分、即時待機(即座に発進できる態勢で待機すること)が発令され、杉田上飛曹、私(笠井)、宮澤豊美二飛曹、田村恒春二飛曹の紫電改4機が用意されました。飛行機に乗って待機していると、まず、敵機北上中との情報が入った。ただちにエンジン始動、試運転もそこそこに、一番機、三番機がチョーク(車輪止め)を外して猛然と砂埃を上げ、杉田上飛曹は後ろを振り返り上空を指さしながら離陸を始めました。しかし、そのときにはすでに、グラマンF6Fが7~8機、飛行場の真上にきていて銃撃を始めたんです。

私も続いて離陸しようと、チョーク外せの合図をしましたが、もう整備員が退避してしまってどうにもならない。そのうち、グラマンの放ったロケット弾が翼下で爆発し、主翼に大穴が開いて燃料がこぼれ出しました。

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いまはこれまで、と飛行機から転がり出て退避しながらふと前方を見たら、杉田機がブワッと火と煙を吐いて、墜ちる寸前でした。何か叫んだと思いますが、言葉にならなかったですね。

四番機の田村は、私が出ないもんだから離陸できず、三番機の宮澤は杉田機の墜ちた上を飛び越えて左旋回で高度をとろうとしているときに、高度150メートルぐらいでグラマンに捕捉され、撃墜されてしまいました。敵機が上空に現れたとき、発進中止の命令が出たといいますが、私はそれを聞いていないし、気づきませんでした」

杉田上飛曹、満20歳と9ヵ月。歴戦の戦闘機乗りの呆気ない最期だった。

笠井智一氏の目の前で戦死した杉田庄一上飛曹(中央)。日本有数の「撃墜王」だった。その右上が笠井氏

4月6日の「菊水一号作戦」に出撃し、7日に戦艦「大和」の上空哨戒に飛んだ植松眞衛大尉も、杉田上飛曹が戦死したのと同じ15日、笠之原基地上空で敵戦闘機15機編隊に対してたった2機で空戦を挑み、1機に命中弾を浴びせたものの自らも被弾、頭部と左脚に重傷を負い、からくも落下傘降下している。

「脱出直後に意識を失い、気がつけば海面でした。ただちに落下傘を外して1000メートル先の海岸めざして泳ごうとしましたが、脚が動かないんです。落下傘は風をはらんで沖に流されていき、敵戦闘機・F4Uがそれを狙って機銃を撃っているのが見えました。

漁船に助けられ、基地の地下防空壕の医務室で診てもらったところ、負傷箇所は後頭部と左脚の銃創と、脱出時に翼に接触したことによる大腿部骨折でした。敵愾心に燃えて、やっつけてやるとの一心でしたが、いま思えば、圧倒的多数の敵戦闘機に2機で突っ込んだのは無謀だったですね……」

(続く)

「零戦の神様」と呼ばれた天才戦闘機乗り・岩井勉さん他、7人の零戦搭乗員の生の声を収録した貴重な証言集

 

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