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最近xへの投稿で、歴史学者のトレーニングの第一歩は一次資料を批判的にみることだ、というようなものをみた。

これこそまさに、深井氏に対してあれこれいっている人たちへの小生の疑問である。

深井氏が引用しているような文書の内容を自分が使いたいのであれば、それはまず、それを確かめるところから作業は始まるのではないだろうか?

それが松井健人氏によれば、”悪質な捏造”ということで、この疑問が納得できない限り訳者として不適切という。しかし、プロフェッショナルな人たちはおそらくこのような文書は原書と例えば英訳などを参照して引用するだろうから影響はないはずである。また、素人は読んで何かしらのことを考えると思うが、それはあくまでも学術目的などではないので、彼がいう学会への影響はないだろう。

というか、もともとが、深井氏の捏造は学会への影響はないが、素人がキリスト教学者というのは適当なことを本に書いたりする、ということで、素人はだれかが書評を学会誌などに書いてくれたものはそれなりに学会でも認められた知見とおもうということだが、それがない本は学会的には際物だと思わないといけないということだろう。

それにしてもどうして松井氏は論文を書くときの一次資料への批判的な吟味は不要と考えているのだろう?不思議なことだ。

世の中には例えば医師が書く小説やエッセイなど、医学的な検知からすれば誤っていることもあろう。それについて、医学会がどうとかこうとかいうことはない。なぜかというと”小説”というのがそういうものだと思っているからだ。深井氏も学術論文ではなく、一般書で書いていることなのだから、目を引くような表現などが山盛りになることはありうると思わないといけないと思う。

繰り返すがそのような本には書評を書けばよいのだ。一般人にはそんなものは目に留まらないわけだが、そこまで自由主義社会の日本で統制し切れるのかどうか。

 

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