【三十三間堂】なぜ33なの? 1001体なの? 平清盛と後白河上皇の歴史をわかりやすく。
◎三十三間の三十三は観音が変化した数 ◎千体千手観音立像。千のわけは「多いほうがいい」から。
ゆかりの人物:平清盛(寄進)、後白河上皇 創建:平安時代
目次
Toggle三十三間堂の三十三の意味は?
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は通称で、正式名は蓮華王院という寺院だ。 三十三という数字は、観音菩薩と関係がある。 観音菩薩は人間を苦悩から救うためにすぐにとんできてくれる菩薩だ。 あちこちいくのには1人では無理で、変身して対応する。 その変身の数が三十三ある。
ということが、法華経に書かれている。
三十三間堂の本尊は千手観音坐像であるので、三十三はこれに由来する。
そして、本堂の堂内の内陣にある柱の間が三十三あることから「三十三間」堂とよばれる。
なぜ、千体もあるのか
千体国宝指定記念「無畏(むい)」より。この冊子には8ページ折り込みで千体すべてが掲載されていてお薦め。売店で販売。
三十三間堂の本尊は千手観音坐像だ。 このほかに、千の千手観音像が並んでいる。 それはなぜなのか。
「千」というのは「とにかく多い」を表している。 三十三間堂が造られたのは平安時代中期。 このころは末法思想からの死後への恐怖がつよく意識されるようになっていた。この不安をすくいあげるために多くの仏像を並べるなど数量で巨大さを誇示する傾向があり、三十三間堂もそれにならったと考えられる。
千手観音像を「千」揃えるとはご利益無限大。
作るとなったらハンパではない数だ。
この贅を尽くした千手観音軍には、三十三間堂を寄進した平清盛と寄進された後白河上皇の関係性がみてとれる。
三十三間堂と平清盛、後白河上皇
三十三間堂は、隆盛を誇る平清盛が、絶大な権力をもつ後白河上皇に寄進したものだ。
後白河上皇は、平安時代藤原家の摂関政治の衰退にかわり院政をしき絶大な権力をもっていた。院政をしいた3番目の上皇。
一方平清盛は、武士から力をつけスピード出世し後白河上皇に深く食い入り朝廷で大きな力をもつようになっていた。
三十三間堂は、平清盛が権力をより強固なものにしようと考え、後白河上皇に最上級の”おもてなし”をすると同時に、自らの力を徹底的に見せつけるためにつくられたと考えられる。
では、そもそも三十三間堂は、なにを目的とした建物なのか。
三十三間堂は後白河上皇の仏堂
三十三間堂は、後白河上皇が建立した御所・法住寺殿(ほうじゅうじどの)の仏堂として建てられた(1164年)。 80年後の鎌倉時代、火災により焼失し後嵯峨天皇によって再建された。
現在の法住寺三十三間堂の近くにこじんまりと建っている。
なぜ千手観音なのか
後白河上皇は何度も熊野神社詣をしており、ある時霊験に打たれ、それが千手観音の霊験だった。 霊験は京都に熊野権現を迎えよ、ということで、後白河上皇は新熊野(いまくまの)神社、新日吉(いまひえ)神社をたてた。
新日吉神社その2社を含む広大な土地に法住寺殿があり、そこに三十三間堂も建てられた。
三十三間堂が建てられた時期は平清盛と後白河上皇の関係は良好であったが、結局はお互いが利用し合う関係で、最終的にはバランスを崩し敵味方となる。
平清盛と後白河上皇、仲が良くなるまでから平氏が滅ぶまで
平清盛は後白河上皇との関係を築き栄華を極めるが、次第に関係が悪化し、平氏は滅亡する。 その流れはつぎのとおり。
平清盛と後白河の蜜月平清盛は平安時代の武士。 後白河上皇はその時代、院政をしいて権力を握っていた第77代天皇。
後白河天皇の皇位継承の際に争いがおこったが、平清盛と源義朝(みなもとのよしとも)が味方したことで勝利した(保元の乱1156年)。 これをきっかけに平清盛と源義朝は昇進し、後白河とつながりを深めていく。
その後、後白河上皇と藤原信頼の対立がおこり、ここで平清盛は後白河側につき勝利、源義朝は藤原側につき斬首された(平治の乱1159年)。
これ以降、平家は諸国の武士団の上にたつ武家の棟梁となり、朝廷で大きな勢力をもつようになった。
三十三間堂が建てられたのはこの頃。
鹿ケ谷の陰謀から平家滅亡平家のあまりの傍若無人ぶりに後白河法皇(出家し法皇に)も危機感を持ち平家討伐を画策するも(鹿ケ谷の陰謀)情報がもれ後白河法皇は幽閉される(1179年)。
これに堪忍袋の緒が切れた反平氏勢力が挙兵(1180年)。 翌年清盛が死去し、勢いを失った平家は滅亡した。
その後源氏の時代になるが、後白河上皇は鎌倉幕府成立の年、病死した。
国宝ばかりの仏像
十一面千手千眼観世音菩薩・千体【国宝】十一面千手千眼観世音菩薩は、困っている人々を漏らさず救済しようという慈悲の姿。
千手の数え方左右合わせている手の他に左右両脇に手が20本ずつある。 1本の手が25種類の世界で救いの働きをするので、25×20×2=1000で「千手」を表している。
十一面頭に11の顔をつけている。 あらゆる方向に顔をむけ、すべての人を救済してくれる。
消失から残ったのは124体三十三間堂は鎌倉時代に火災にあいほぼ焼失するが、124体の千手観音はまぬがれ創建時の像。 ほか、876体は鎌倉時代に、1体は室町時代に再興されたもの。 鎌倉時代の仏はおもに三つの流派によってつくられた。 ・慶派。湛慶を中心とした派。 ・円派 ・院派 一体一体顔が異なり、〇尊とお名前がある。
千手観音坐像【国宝】鎌倉時代の再建時に大仏師・湛慶が弟子と完成。
二十八部衆【国宝】火災時に焼失をまぬがれたが、創建時の仏像ではないとみられている。 二十八部衆は千手観音の眷属で観音を信仰する者を守る。 28体が千体の千手観音を守るように前列に並んでいる。 それぞれキャラクターがたっていて名前とお顔・姿をよくみていると飽きない。
19番目 薩遮摩和羅像(さしゃまわらぞう)とても美しい。
21番目 金色孔雀王像(こんじきくじゃくおうぞう)顔がはがれている場面が表現されている。
上2点画像は「無畏」より
風神と雷神像【国宝】五穀豊穣を司る神々。太鼓を打つ雷様、風の袋をかかえた風の神のイメージの原型。
画像はパンフレットより
三十三間堂 堂内のめぐりかた例
入口からそぞろ全体をみながら歩くのもよいが、ポイントを決めて順路を往復しながら拝観するとより三十三間の距離を体感でき理解が深まる。 ①観音様1体をよく拝見する。 堂に入ってすぐ、右側に観音様の列が現れる。 ここが観音様1体をわりあい近くでじっくり見られるポイント。 手の本数を数えたりでき、もちものなどもよく見える。 ②三十三間を確認する。 入ってすぐから、出口までをまず歩く。 柱の間が三十三あることを確認する。結構な距離。 ③二十八部衆を拝見する。 入口まで戻って、二十八部衆だけを見る。 お顔といでたち、持ち物、立ち姿をお名前と合わせてじっくりと見る。 ④千手観音坐像を拝見する。 入口まで戻って、中央に移動しメインの千手観音坐像を拝む。 ⑤千体千手観音を拝見する。 入口まで戻って、千体千手観音を順番に見る。 千体それぞれに「01 聖諦尊(しょうたいそん)」「02 難勝尊(なんしょうそん)」などお名前があり、お顔が違う。 ⑥千体千手観音 創建当初像、慶派・院派・円派名のついた像を重点的に拝見する。 中央に移動し、創建当初像、湛慶作など札が立てられている観音像を見る。 ⑦風神・雷神像を拝見する。 入口まで戻って、風神を見る。二十八部衆を流し見しながら、出口の雷神を見る。
国宝
千体千手観音立像 千手観音坐像 風神・雷神像 二十八部衆
宗派
天台宗
日本のおもな宗派密教系天台宗真言宗浄土宗系浄土宗浄土真宗日蓮宗禅宗系臨済宗曹洞宗黄檗宗蓮華王院 三十三間堂ホームページ
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